こんにちは。直良です。
今回はエネルギー哲学的な話をしていきます。
動物と人間の共生、人間関係、あらゆる関係性にとって重要な要素のお話です。
三つの価値軸

物事をとらえるときに大きく三つの価値軸があります。
それは、その現象や事象が
- 主観的か客観的か
- 具体的か抽象的か
- 絶対的か相対的か
というものです。
今回はその中でも
【主観的か客観的か】
という価値軸のお話をしていきます。
いろいろ具体例をいれて説明していきたいと思います。
主観と客観
主観と客観という価値軸は
起きている現象・事象をどの視点からとらえているかということです。
主観的
主観に基づくさま。また、自分だけの見方にとらわれているさま。
三省堂
客観的
個々の主観の恣意しいを離れて、普遍妥当性をもっているさま。
三省堂
要するに、主観というのはある個人としての見解、多くは自分自身の見解や意見のことをさしたりしますし
客観というのは第三者、だれが見てもそう考える、数字で証明されたエビデンスがある、などのことをさしたりします。
よく「主観」は否定さればちです。「視野が狭い」「考えが偏っている」「それは君の考え方だろ?」みたいな感じです。
客観視できることはしばしば褒められることが多い気がします。「大人な見方だね」「自己中心的な見方ではない」「説得力があるね」
主観と客観の例

こんな会話があったとします。
「ポケモンめっちゃ面白いよなー!」
「そうなんだー。やったことないわ。」
「え?なんで?あんなに面白いし人生損してるよ!」
「それはお前の主観だろうよ」
これは、ポケモンだいすきな人が「自分はポケモンが好きで、みんなも好きになるべきだ」「みんなもポケモンをやってほしい」という主観の例です。
逆に、客観的に言えば「ポケモンを魅力的と思う人もいるが、そう思わない人もいる」ということです。
これは主観をあらかじめ表明していないパターンです。
では、主観をあらかじめ表明しているパターンを見てみましょう。
「AKBって一般的にはかわいいかわいい言われてるけど、個人的にはかわいいとはあまり思えないんだよね。」
「はぁ、それはお前の好みの問題だろう」
「だから個人的には好きっていってるじゃん。」
これは、先に主観的な発言ですーと表明しているパターンですよね。
「個人的にはかわいいとはあまり思えない」という言い方です。
しかし、結局そこを聞き逃したのか、お前の好みだろうという発言をしてしまったパターンです(笑)
では、ある程度平和な会話例はこちら。
「ポケモンめっちゃ面白いよなー!」
「そうなんだー。やったことないわ。」
「俺はポケモンめっちゃ面白いと思うよ。個人的にはね(笑)。
キャラデザインが好きなんだー。」
「そうなんだ、例えばどんなのがあるの?」
まず、主観を相手に押し付けない。人生損してるよ!絶対やったほうが良いよ!という押し付けはないです。(笑)
そして、より具体的になぜ好きなのかを述べています。
そうすると、少し客観的立場になって、ポケモンというものをわからない相手の立場になって、具体的に好きなポイントを述べます。
そうすると、少し相手が興味を示すこともあるかもしれませんよね。
では、後者の例を平和的にすると
「AKBって一般的にはかわいいかわいい言われてるけど、個人的にはかわいいとはあまり思えないんだよね。」
「そうなんだ、俺は個人的には普通にかわいいとは思うよ。でもあんなに人気なのにやっぱり好みって分かれるものだよね。」
「そうそう、別のアイドルグループでかわいいと思うところはあるけどね」
「え、例えばどこ???」
これは先に主観的ですよーって表明しているパターンでしたが、受け答えも主観を表明しつつ、反対意見を述べます。
しかし、客観的立場に立って、好みって分かれるんだよねという発言をしています。
そうすることで、相手から別のグループならかわいいと思うところはあると話は進んでいきます。
こんな感じで、主観的な意見を述べていることを表明することも大事ですし、主観を押し付けないということも大事です。
そして、主観だけでなく、客観的な立場で物事を考えるというバランスも大事です。
そうすることで
- 主観という「個性」
- 客観という「共感」
のバランスがとれるようになります。
主観が強すぎるとそれは「個性」ではなく「固定観念、強制強要」的なニュアンスになっていきます。コミュニケーションギャップの一因となります。
逆に客観が強すぎると「個性」が消失していきます。冷たい印象になりますし、人間味が低下していく傾向にあります。
両者のバランスが大事ですが、一般的に感情的になっていくと、主観が強くなる傾向にあるので、注意が必要になると思います。
動物との共生には大事な価値軸となる

主観と客観というのは動物との共生、ペットライフなどにとっても重要です。
人間があまりにも主観的になりすぎると、動物たちはどんどん生きづらくなってしまうと思います。
たとえば、主観が強すぎるアニマルコミュニケーション法というものがあります。テレパシーに頼っていく方法です。
極論、それはコミュニケーションをしている飼い主の作り出した世界観の中で解釈して理解していることがほとんどです。そこには客観性はほとんどありません。
ぼくが経験したことですが、テレパシー型のアニマルコミュニケーターが三人いて、同じ状況でコミュニケーションをすると、みんな違った回答をするのです。バラバラ。
そしてそれはコミュニケーターの過去の経験や動物に対する価値観に大きく影響していて、相手の動物の気持ちや価値観というものがあまり反映されていませんでした。
本質的な動物とのコミュニケーションは、動物の価値観に立つことだと思います。
人間主体ではなく、より客観性が問われるのだと思います。
だから、動物行動学という客観性、動物の出すサインや機微など心理学的要素も重要になります。
そのベースをすっぽかしていきなりテレパシーでコミュニケーションをとるのはかなり主観性が強く、コミュニケーションギャップをうむことなのだともいます。
よく
「飼い主さんが良かれと思ってやったことだから、きっとペットも幸せだよ」
という言葉を聞きますが、これは完全に人間都合です。
厳しいことを言います。動物のことを真剣に考えて行ったことかもしれませんが、そこに客観性が全くないのであれば、それは危険なことかもしれませんよね。
本当の愛情というのは、主観の世界ではなく、主観と客観のバランスのとれた政界で成り立つのだと思います。
ぼくはそれを動物たちから教えてもらいました。
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